・・・・・・・・・蔡國強氏
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 いわきの海岸で昼食をとる蔡さん家族
 地平線プロジェクト廃船引き上げ時(1993年)
 この本は、私のアート史的なものと言えるかもしれない。粉彩、油彩、火薬絵、しかもカンバスから和紙、火薬プロジェクトからインスタレーションまで、色々な面をもって私の日本での道を、読める形で痕跡を残した本と思う。この本にある沢山の初期の作品や、その後の小さい作品たちは、私の少年の頃からの、絵描きになりたいという気持ち、そして絵を描くのが好きで、また得意でもあった私自身の姿が表れています。

 日本へ来たとき、まず銀座の沢山の画廊を廻ってとても興奮しました。千軒もあるという画廊は、すなわち千のチャンスがあると・・・。しかし自分で絵を持ってきた留学生たちの絵を見ないのが皆そうであるなら、画廊は一つもないのと同じだった。その後すぐ東京から出て、毛沢東の"農村が城市を包囲する"という戦略のように、200キロも離れたいわきにやって来たのです。いわきは私の"井岡山"のように"革命の根拠地"です。いわきの人たちは、私と妻を中国人アーティストとして新鮮な目で評価し、そして変わらない一人の人間としての優しさまで評価してくれて、互いにどんどん親しくなりました。最初、絵は数千円から数万円、一点一点は持ちやすく、絵そのものは友をつくる縁となり、私たち家族の生活を支えてくれました。日本に生き残り、万里長征の出発の自信となったのです。

 地平線プロジェクトのとき、私たちの生活はとても大変な時だった。仕事はどんどん大きく展開して行くが、収入は進まない。そしていわきに住む約半年間はとても寒かった。朝起きてアトリエのある丘から、迎えてくれる志賀さんの車まで降りる時、凍り付いた階段でなんども転んでしまった。志賀さんや忠平さん、プロジェクト実行委員会の方と一緒に、関係のあるところに一軒一軒お願いのあいさつに行ったのは、作品の一部でありながら、人生の修行でもあった。志賀さんの車にいつも流れていたテープは、グスターヴ・ホルストの「木星」という曲。いまでも耳の奥に響いてくる。壮大なる旅の寂しさの勇気を持ち、ふだん現代美術と無縁のみんなと一緒に未知の世界を探検したよう。その時の私は黎明直前の寒さの中でも、心はあたたかい人々に守られて、初めての美術館の個展、いわき市立美術館の作品制作のために日夜一緒に働いた。

 「環太平洋より」そして「地平線プロジェクト」は、そのとき日本の国際化と近代化に対する結果が、ただ西洋化でしかなかったのではないかという反省期を反映した作品と言えるでしょう。村から宇宙につながれば、もちろん国際的になるのはあたりまえと言おうとしたのです。 初めての美術館個展だったので、作品は作りすぎていっぱいだった。エレベーターまで作品になった「平静の地球」は、今では世界的なアイディアとなった。階段で使った1トンの水晶はオーストラリア国際美術館の収蔵作品として水晶の塔になった。三丈の塔は、いわきから東京都現代美術館の開館展に出品のあと、ベニスビエンナーレ、ヒューストン、リヨン、ベルギーのゲントなど、世界の現代美術館を巡回し、今はギリシャの現代美術財団に収蔵されている。

 忘れないことは沢山沢山ある。私の活動を中止しないと・・・、という匿名の手紙は学芸員、実行委員会をはじめマスコミにも送られた。私の行為は日本への侵略、環境破壊であるという手紙の内容であったが、だれもそれを信じないで私のことを理解してくれた。警察署は安全のために私の住む家まで夜の巡回をしてくれた。調査の結果、手紙は暴力とは無縁の地元の知識人であったという。台風の翌日、学芸員の平野さんと皆さんはアパートの屋上に登り、瓦を修理してくれた。

 いわきの物語はつづいている。遠くから一人やって来た人間とその家族、彼のアートと、一つの街の人々との物語です。その街を遠く離れた今も、変わらず便りが届く。蔡國強通信が生まれ、彼の作品の今を街のみんなが見ている。世界のどこかでがんばっていることを街の人々が喜んでいることが伝わってくる。すばらしさに恵まれた、人生で、人間でよかったと思う。いま「龍骨」という北洋船は海岸に永久設置され、海に向かっている。街の人たちと共に水平線の向こう側の自分を見ているよう。いわきの海岸の砂浜、そこにはまだ北洋船が埋まっていることだろう。いつかもう一度、みんなと一緒に一艘の大船を掘り起こして、少年の夢と人間の浪漫を持って作品をつくろう。再び世界へ出航するために。        蔡國強 2002.8.13 太平洋上空にて 
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