1
 火薬のエネルギーは宇宙や
 自然のパワーにつながる

2
 予算を凌ぐ
 いわきの人々のパワーは・・・

3
 太平洋に面した街から
 宇宙や世界と対話する

4
 面白いアート、美しいアートを
 作り出したのは・・・・

5
 沈んだ船が光を取り戻し、
 記憶をも戻した

6
 いわきの人々と共に味わった
 夢のような瞬間

7
 時代の物語り
  蔡國強氏への想い
    Iwaki Team Member
「いわきからの贈り物」メンバーの蔡 國強氏への想い
(敬称略)

「蔡國強といわき」 ギャラリーいわき 藤田忠平

華僑の故郷とも言うべき中国福建省に生まれ育った蔡國強は、1986年の12月、自由な作品発表の場を求めて日本にやってきました。その翌年には縁があって、いわきとの交流が始まり、1988年にはギャラリーいわきでの初の個展が開催されました。

日を重ねるたびに、友人、知人、そして支援者も増え、1994年のいわき市立美術館での蔡國強展へと繋がっていきました。同時に新月の夜に新舞子海岸で市民ボランティアと一体となった「地平線プロジェクト」が敢行され、これを機に蔡といわき市民との信頼関係がより深まり、蔡のプロジェクトを支援するいわきチームが自然と形づくられることとなったのです。

そして2004年には、小名浜神白海岸に埋もれていたもうひとつの廃船を蔡と美術館の要請で引き上げ、アメリカワシントンのスミソニアン博物館に送ることになりました。「いわきからの贈りもの・トラベラー」というこの作品はその後、カナダ国立美術館でも展示され、2008年2月には、ニューヨークのグッケンハイム美術館での蔡國強展にも出品されることになっています。そしてこの作品が移動するたびにいわきチームが出動し、作品のくみ上げの任に当たっています。

いわきを出発した作品『トラベラー』はアメリカ、カナダを旅し、今年の夏には北京オリンピックにあわせてニューヨークから蔡の生まれ故郷の中国に渡ることとなるかもしれません。
これからも「蔡國強といわき」の旅は続いていくことでしょう。



「蔡さんはおもしろい」 東北機工株式会社 志賀忠重

蔡さんと知り合ってから20年近くなる。現代美術に興味の無かった私が、何故彼とこんなに長く付き合ってこれたのか不思議である。彼の魅力は発想にある。特に目の前に問題が発生した時の蔡さんの考え方が面白い。

私が万里の長城10000m延長プロジェクトに参加した時、私は砂漠の寒さにやられ、風邪をひいた。北京のホテルに戻り、高熱でうなされているところへ蔡さんがやって来た。
そして「志賀さん、風邪をひいて熱が出るのはけっして悪くないですよ。ガンの細胞は熱に弱いので、中国では風邪をひかせる方法を研究していますよ。」というような事をいつもの口調で言った。
私はこれを聞いて、半信半疑ながら妙に納得して気持ちが楽になった。それと同時に蔡さんのやさしさを感じた。

また、こんな事もあった。彼はいわき市立美術館で個展のため、作品を制作していた。その中のひとつに、廃船の側板で塔を作りたいとのアイディアを出した。蔡さんのアイディアは、玄関前にあるヘンリームーアの彫刻を塔で覆ってしまおうというものだった。いつも見慣れているものが見えなくなる面白さで、私達はワクワクした。しかし、美術館の学芸員よりその案に反対の意見が出た。蔡さんが結構自信を持っていたデザインだったので、手伝っていた私達もかなり落胆した。しかし蔡さんは、自分のアイディアを無理押しする事はなかった。

翌日には、ムーアが創った像を3方から囲んでしまうという新しいデザインを書いてきた。それが三丈(9.9m)の塔である。この時蔡さんはこんなふうに言った。「自分のやりたい事に問題が出た時、そのやりたい事を縮小するのではなく、もっと大きくしてみると解決できますよ。」と・・。
彼の考え方は、とても柔軟であり力強い。そして臨機応変なのである。いわき市立美術館での個展の時には、このような事が毎日のようにあり、一緒に仕事をする事が本当に面白かった。この時期私は、自分の時間が自由になり、ほとんど毎日のように6ヶ月間、彼の作品作りに時間を費やした。

蔡さんから学んだ発想のしかた、又それを実現させる方法は、私の仕事の中に生かされている。また、外国人との友情や信頼がつくれる事を実感させてくれたのも蔡さんが初めてだった。このような彼の魅力が長い付き合いの素になっていると私は思っている。




「蔡國強というアーティストについて」 スタジオKAYA 真木孝成

芸術品は売買され又投資の対象とし取引されている事が多い現状である。又蔡國強という人間も世界の多数の美術関係者から注目されている。
少数の美術作品は何十億という金額でオークションで落札されそれが新聞の紙面を飾る。私は縁あり蔡國強というアーティストと知り合った。

原油は1バーレル100ドル越え、この地球の温度は上昇、知識を増したと思い込んでいる人間は快楽を追求する欲のため、この青き天球を破滅へと道を進めてゆく。アーティストは本来は乞食と出家者の中間に位置するものだと、又、予知能力をもつ人種と思っている。
その事が人々に尊敬の念を与え、それゆえその作品が金品に変わる。それが現在の世の中である。常にアーティストというものは、その時代が判断する。蔡さんはイギリスで起こった産業革命の如く、アートの質を大きく変えた。

100年後、200年後から蔡國強というアーティストをヒマラヤ連山に例えて見ると、遠くにダビンチという山が高くそびえ、連なる連山があり、近くに一際大きく見える山が泉州の巨龍という別名のつく山なのだろう。全ては時が判断するのだが 私にはその様に思える。
私は近くにいるアーティストの一人として、この今いる私の状況が不思議でならない。初めて蔡さんに会ったのは最初のギャラリーいわきでの個展であった。火薬を使った作品ではなく、中国の辺境の油絵であった。

2回目は蔡さんがいわき市立美術館においての個展の準備中、友人の多くが導火線作り等のボランティアをしていた頃であった。その頃私は初めてのインドの旅から帰って2年後ぐらいしたころで私は住んでいた山からあまり外へは出る事は無かった生活をしていた。

あるとき友人の志賀さんに四倉の蔡さんが住んでいる所に連れて行かれた。
なぜ行ったのかは思い出せない。小高い丘の上の一軒家、中国のウーロン茶のあたたかさと家の隅にカップラーメンと食パンがあった記憶が残っている。まったく体を動かす気はなかったのだが、会って30分後には土瓶作り等の焼きもの作りを私の方からしたくなり、手伝う事になった。
それは蔡さんの人柄からだろう。その頃の際さんは中国の好青年という感であった。

2日後、蔡さんが私の家に来て打ち合わせ。話をしているうちに土瓶と湯のみから火鉢、炭入れ、水瓶、テーブルも作ろうと大きく膨らんで行った。これが私と蔡さんの関係の始まりであった。
最初私は蔡さんが作品を作り、私は土作り、蔡さんが作りやすい様な手伝い、窯の焼成をすることと思っていたのだ。蔡さんが簡単に作りやすい様に作って見せながら「こんな風にやればどうですか?」と蔡さんが言った。「そんな感じでいいですから真木さん作って下さい」と・・・。
まあ10数個くらいだから私が作った方が早いだろうと思ったが、アーティストなのだから自分で作らないと作品にならないのにと思いながら作った。土瓶の方は蔡さんが作るだろうと思っていたら「真木さん作って見て下さい」と又言った。
まったく形に関して注文を付けなかった。その時思った。なんて
許容範囲の大きな人だと。
私は蔡さんの好みにあわせ蔡さんの手になった。私は思った。蔡さんの脳から私の脳へ私は唯、マシーンに。

この人は私と美しさに対して同じ思いを持っている事を感じた。美しさとは時間場所を超えても同じであると。千年前のヨーロッパでもアフリカでも千年後のどこかでも、本質なものに変わりがないことが。自然の美に勝るものは無い。美しさと言う人間の思うスケールは、自然の美の上に成り立っている。

その後の何回かの手伝いの中で私は学んだ、 多くのアーティストの心得を。蔡さんに知り合うことができた事に感謝。この縁に感謝。私は幸せである。



「蔡さんがくれたもの」 有限会社映像記録社 名和良

蔡さんの仕事を手伝うようになったのは、いわきで行われた彼の個展「地平線プロジェクト」の時でした、道を挟んだ向かいの会社の志賀さんより、ビデオ記録を頼まれました。費用がもらえる訳ではなく、ボランティアとしての記録係でした。

レンズを通してみる蔡さんの印象は、若く貧しそうだったのですが、その時の蔡さんの周りで、彼の作品づくりを支援している人達の印象から、彼が未来に可能性を秘めていることを強く感じました。それから10数年、蔡さんの活動がある度に、ビデオに記録しています。蔡さんの仕事は、自分の会社の中で最優先になっています。

地平線プロジェクトのとき、廃船の引き上げに参加した人達が、私の編集した映像を見ながら感動している姿に、これが記録の大事さなんだと、つくづく思うことができました。蔡さんがほとんど無名だった時から現在のように有名になるまで、自分が記録係として携わってこれたことは、私の自慢でもあり、大変うれしく思っています。
一人の人間が成功するまでのひとつの事実を、目の当たりに出来たことは、記録係としての仕事名利に尽きます。
私が地平線プロジェクトの思い出を大事にしているように、蔡さんの気持ちの中にも、いわきでの出来事が深く刻まれているのを大変うれしく思っています。



「蔡さんの魅力」 アートスタジオ 小野一夫

2008年1月29日朝4時15分スタジオでの作業を終え、外を見ると薄っらと雪化粧。なんか、いい感じと思いつつ、やめられないタバコをふかしているうちに、雨になっちまった。
山下達郎のクリスマスソングの逆バージョンかよ。(雨が夜更け過ぎに雪えと変わる)オレの人生と同じかなと思いながら二本目に火をつけちまった。そういえば蔡通信へのコメント書いてよって、いわれたよな。

1993年初夏、地平線プロジェクトが発足して会のメンバーが船でロケに行った時かな。蔡さんが、「いわきの海はきれいですね。」と云うので、青い海と空のことかなと思ったら沖防のテトラポットが美しいと言ってるよ。オレなんか規則正しく並んだコンクリートの固まりにしか見えないのに、この人やっぱ中国人だから万里の長城でも思い出すのかな。

それともこれって現代アートぽいのかなーなんて思ったり、オレなんかも、たまに発電所のエントツなんか見るとアートぽく見えるもんな。蔡さんの魅力は、オレの既成概念を壊してくれるところ。
作品を見ると物質文明の象徴のような「火薬」「車」「船」などを使った大掛かりな試み。そして人類に対しての挑発的ともいえるメッセージ。東洋人とか西洋人じゃなくて地球人的発想。いや、宇宙人的視線で創作活動をしているのかな。

ところで2月14日からグッケンハイムでの作業。記録係のオレは常日頃、建築やスタジオ写真中心。スナップ写真は、苦手な分野。それに同行するメンバーは、個性派ぞろい。なんか戦場に行く気分。オレにできることは、せいぜい菊のお茶でも飲んで、目と脳をクリヤーにすることかな。



「めったに味わうことが出来ない経験」 有限会社丸北志賀組 志賀武美

蔡さんという人を知ったのは、私が東京の会社を辞めていわきに戻り、父の経営する会社に勤めたばかりの頃でした。ある朝、叔父の志賀忠重さんが、「地平線プロジェクトというものをやるので手伝ってほしい」と蔡さんと一緒に突然会社へ来たように記憶しています。

父や叔父に言われるがまま、蔡さんがアトリエとして借りていた家の前の畑を耕し、菊の苗植えなどを手伝ったことが懐かしく思われます。その時は地平線プロジェクトというものがどんな意味をもっているのか、何の為にやっているのか、また蔡さんという人がどんな人なのかを理解していませんでした。

蔡さんを詳しく知るきっかけとなったのは、地平線プロジェクトから約10年後「蔡國強といわきと彼の作品」という図録の出版記念パーティに出席し、映像記録社の名和さんが制作したビデオを見たり、図録を読んだ時でした。「あの時のプロジェクトはこういう事だったのか」と地平線プロジェクトというものをやっと理解できたのです。私が植えた菊は、菊茶として個展に訪れた人にふるまわれたことも知りました。私もほんのわずかですが、地平線プロジェクトに参加していたのだと思うとちょっぴり嬉しくなりました。

地平線プロジェクトから10年。蔡さんの要望で再び廃船を引き上げるという話が持ち上がりました。私が建設業を営んでいるということから廃船引き上げを依頼され、プロジェクトに参加することとなりました。砂に埋まっている廃船を引き上げる事は容易ではなく、普段の仕事では使用する事がない大型重機を使って最大限の知恵と技術を駆使して廃船を引き上げる醍醐味を味わいました。引き上げた廃船を分割し、コンテナでワシントンへ送り出した時、何とも言えない充実感がありました。

引き上げした廃船を組立てるため、ワシントンのスミソニアン美術館へ行くこともできました。アメリカのエンジニアと一緒に仕事をする機会等めったにあるものではなく、作業の段取りや進め方など今後の私の仕事に役立つこともたくさん学びました。
また蔡さんと一緒に仕事をして、蔡さんのセンスの良さや作品を作り上げる情熱に感動しました。

カナダでの廃船組立てにも楽しく参加することができましたし、今年2月の蔡さんのグッケンハイムでの個展に携われることも大変嬉しく思っております。搬入の関係でさらに細かく切断された廃船がどのように組立てられ、どんな作品になるのか今から楽しみです。




「蔡さんという人を理解した瞬間」 Support21 菅野佳男

蔡さんとの出逢いは、2003年の図録「蔡といわきと彼の作品」の出版記念パーティだった。1994年の地平線プロジェクトのメンバー5人が中心となって行われたパーティで、その時初めて蔡さんと会った。
その後、蔡さんの要望で10年前と同じようにいわき市小名浜の海岸に打ち上げられた廃船を引き上げプレゼントすることとなる。私は、引き上げる為の海岸使用許可や蔡スタジオとの連絡、資金集めのための各種資料作りを担当し、廃船引き上げの段取りをすることとなった。この時から「いわきからの贈り物プロジェクト」が本格的に始動する。

2004年3月初旬、丸北志賀組の機敏な作業により、廃船は予定通りに引き上げられ、分割された。私はこの時の様子を引き上げ作業に来れない蔡さんへ、毎日メールで「作業日誌」として写真を貼付して送信したが、蔡さんや蔡スタジオからは何の連絡も無かった。何か連絡があってもいいはずなのに・・・、ご苦労様の一言があってもいいのに・・・と思っていた。

しかし、10年前の地平線プロジェクトに参加していなかった私は、蔡さんという人をまだ理解していなかった。後に蔡さんは、「廃船の引き上げについては何も心配していなかったですよ。何故ならいわきの人に任せたのだから何も心配する必要はないです。」と話したということを聞いた。この言葉で私は、「蔡さんは我々いわきチームに絶大なる信頼をよせている」と感じた。我々を信頼しているからこそ、安心していたからこそ、連絡をよこさなかったことに気づいた。

廃船はアメリカワシントンD.Cに送られ、スミソニアン美術館で組立てられて蔡さんの手で「トラベラー」という作品に生まれかわった。いわきチームは、廃船のみ立てと蔡さんの個展のオープニングセレモニー出席のため、ワシントンD.Cへ招待された。私は参加することが出来なかったが、廃船組み立て時に私が作成した図面が役に立ったことや、廃船引き上げ時に私が撮影した写真がパンフレットに使われていた事を知り、何か酬われた気持ちになって嬉しさがこみ上げてきた。この感覚は忘れる事はできないだろう。
今私は、蔡さんの芸術に携われること、いわきチームの一員として蔡さんのプロジェクトに参加できることを楽しんでいる。

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